岡山城の歴史を詳しく解説|築城から現在までの流れ

岡山県の中心部にそびえる岡山城は、その美しい黒漆の外観から「烏城(うじょう)」とも称され、多くの人々に親しまれています。しかし、単なる観光地としてだけでなく、岡山城は戦国の動乱から江戸の安定期、そして戦後の復興に至るまで、時代の変遷を体現する重要な歴史的遺産でもあります。この記事では、岡山城の築城から現代に至るまでの歴史を、時代ごとの出来事や関係した人物に触れながら、わかりやすく解説していきます。岡山城の魅力をより深く理解するための一歩として、ぜひ最後までご覧ください。

岡山城とはどんな城か?その概要と特徴


 

岡山城の基本情報

岡山城は、岡山県岡山市北区丸の内に位置する平山城で、旭川沿いの自然地形を活かして築かれた城郭です。築城は安土桃山時代末期の1597年で、戦国大名・宇喜多秀家によって完成されました。城の北側にある日本三名園の一つ「後楽園」と並び、岡山市を代表する歴史的観光スポットとなっています。

もともと岡山の地は沼地が多く、城の築城とともに土地が開発され、周辺に城下町が形成されました。そのため、岡山城は単なる軍事拠点ではなく、地域の発展と深く結びついた城として知られています。

「烏城」と呼ばれる理由

岡山城は「烏城(うじょう)」という別名でも広く知られています。この呼び名は、城の外壁に黒漆が使用されていたことに由来しています。黒く輝く外観が、まるで烏(からす)の羽のように見えたことから、そう呼ばれるようになりました。

一方で、白漆喰の壁が特徴的な姫路城が「白鷺城(はくろじょう)」と呼ばれるのに対して、岡山城の「烏城」という名称は、見た目の印象からの対比としてもしばしば紹介されます。このように呼び名一つをとっても、城の個性や歴史的背景が垣間見えるのが、岡山城の魅力のひとつです。

建築様式と天守の特徴

岡山城の天守は、五層六階構造で、安土桃山時代の建築様式を色濃く反映しています。大天守は戦国期の豪壮さと格式を兼ね備えた造りとなっており、天守最上階からは岡山市内を一望できます。

本来の天守は1945年の空襲で焼失しましたが、1966年に鉄筋コンクリート造で外観復元され、現在は博物館機能を備えた施設として公開されています。内部には、宇喜多氏や池田氏といった歴代の城主に関する展示、甲冑や古文書、模型などが整備されており、歴史学習と観光の両面から楽しむことができます。

また、石垣や水堀などの遺構は現在も多く残っており、岡山城が築かれた当時の面影を伝える重要な文化財となっています。

岡山城の築城と宇喜多氏の時代


 

宇喜多直家と岡山の支配

岡山城の歴史は、戦国時代の武将・宇喜多直家(うきたなおいえ)によって始まります。直家は巧みな戦略と政略結婚を駆使して勢力を拡大し、備前国(現在の岡山県東部)の覇権を掌握しました。もともと岡山の地は沼地や小丘陵が多く、直家は地形を巧みに活用しつつ、城下町の基盤を整えました。

当時の岡山にはまだ本格的な城郭は存在しておらず、直家は砦のような施設を整備しながら支配を強化していきました。彼の死後、後を継いだ息子・宇喜多秀家が本格的な築城に着手することで、岡山城の姿が形作られていきます。

宇喜多秀家による築城の背景

宇喜多秀家は、豊臣秀吉の五大老の一人にも列せられた有力大名で、父・直家の後を継ぎ、岡山の地に本格的な城郭を築くことを決意しました。築城は1580年代後半から始まり、1597年に天守を含む主要部分が完成しました。この築城により、岡山城は西日本でも有数の規模を誇る城となりました。

秀家は、岡山城を自身の権威を象徴する拠点として整備し、城下町の発展にも力を入れました。天守を中心に武家屋敷、町人町、寺社などが配置され、城下は政治・経済・文化の中心地として機能しました。さらに、城の周囲には水路を整備し、物流や防御面でも優れた設計がなされています。

しかし、秀家は関ヶ原の戦いで西軍に属したため、戦後に所領を没収され、岡山城もその運命を大きく変えることになります。

関ヶ原の戦いと小早川氏の統治


 

小早川秀秋の入城

1600年の関ヶ原の戦いは、日本の歴史を大きく変えた天下分け目の戦いでした。この戦で宇喜多秀家は西軍として参戦し、敗北。その結果、岡山城を含む宇喜多家の領地は没収され、東軍に与した小早川秀秋が新たな城主として岡山に入封します。

小早川秀秋は、豊臣秀吉の養子として育てられた人物であり、当時としては非常に若くして大きな領地を与えられました。岡山藩としては約51万石という広大な石高を持ち、当時の西日本でも屈指の大名となりました。秀秋は1602年から岡山城に入城し、城の体制を引き継ぎつつ、自身の政権基盤を固めていきます。

しかし、秀秋の治世は短く、1602年の入城からわずか2年後の1604年に急死。後継者がいなかったため、小早川家はここで断絶することになります。その後、岡山城は再び新たな支配者の手に渡ることになります。

岡山城の改修と城下町整備

短期間ではあったものの、小早川秀秋は岡山城の城郭整備と城下町の拡張に力を注いだことで知られています。秀秋は天守を中心とした主要施設の補強や、堀の改修、石垣の補強などを進め、岡山城をより堅固な要塞へと変貌させました。

また、城下町の整備にも注力し、商人や職人を積極的に呼び寄せ、町の経済活性化を図りました。これにより岡山城下は、軍事拠点としての性格に加え、経済・文化の中心としての性格を強めていきます。城と町の一体的な発展は、その後の池田氏の時代にも受け継がれ、近世岡山の礎を築いたといえるでしょう。

江戸時代の岡山城と池田氏の支配


 

池田家による藩政と城の発展

小早川秀秋の死後、岡山藩には徳川家康の親戚筋にあたる池田家が入封しました。初代藩主には池田忠継が任命され、その後は池田光政をはじめとする池田家歴代藩主によって統治が続けられます。池田家は岡山藩52万石の大名として、江戸時代を通じて長く地域の支配者であり続けました。

池田家は岡山城を藩政の中心として整備・拡張し、行政機能や軍事機能だけでなく、学問や産業の振興にも力を入れました。とくに池田光政は、倹約と教育を重視する政治を行い、「陽明学」の奨励や藩校「閑谷(しずたに)学校」の設立など、文化的な政策を次々と打ち出しました。これにより、岡山藩は武士の教養水準が高い藩としても知られるようになります。

城郭の拡張と文化の発展

池田家の支配下で、岡山城はさらなる整備・拡張が進められました。天守や櫓の修復、石垣の補強、水堀の再整備などが行われ、より堅牢な城郭へと発展していきます。また、武家屋敷や町人町も整備され、城下町としての機能も一層充実していきました。

文化の面でも、岡山藩は独自の発展を遂げました。藩士の教養や礼節が重んじられ、茶道、和歌、儒学などが広く奨励されました。特に、池田光政の時代には文治政治が徹底され、岡山城は「軍事の拠点」から「文化と行政の中心」へとその性格を変えていきました。

こうした池田家の長期安定政権によって、岡山城と城下町は、江戸時代を通じて繁栄を維持し続けることとなります。